進化を感じる時
はぁ、、、写真がひっくり返るのなんとかならのだろうか。
今、春休みで実家に帰っている。
息子の春休みだけど、わたしの春休みなのだ。
父が、直方のチューリップ祭りに連れてってくれた時の写真。
珍しいチューリップがたくさんあって、テンションあがりました。
綺麗だったので、お近くの方はぜひ♡♡
お、わたし、成長してるやーん、
と自覚できる時って、
前とは違う反応をした時、そのことに気づけたりする。
毎日、毎日、自分の気持ちに寄り添って、尊重しようと心がけていても、
ふと、これって、なんか効果出てるんかな?と、たまに思いませんか?
あたしゃ、思うよ。
でも、見えなくても、わからんくても、
小さく積み重ねた一歩、着実な一歩なのね、と今日思い知った。
(知らないうちに、自分が前とは違う反応・思考を、自然としていた、という話)
わたしは、自分がタフだとは、あんまり思っておらず、
なんなら、繊細ゆえに簡単に傷ついて、すぐ泣く。
でも、おー、わたしって根性あるなー、さすがだなー!と感じる時は、
転んでもただでは起きないし、雑草でも引っこ抜く精神があり、
七転び八起きで、ぜったいに立ち上がること。
(書いてて思うが、これはタフよね笑笑)
どんなに悲しくても、腹は減るし、朝日は昇るし、明日は来るのでありまして、嫌でも生きていかなきゃならんのです。
心底傷ついて、かなしくて、わんわん泣いてても、冷静にその自分を、遠くからみる自分も居て、大泣きしていても『大丈夫』という感覚を得ている自分、というふしぎ感じ。
最近は、なんか、大丈夫、
なんなら順調、とすら、ふしぎと感じる。
自己受容の賜物かしら?と捉えている。
人が、つよいかよわいか、なんて、
植物に喩えると、
四季咲きなのか、夏だけに咲くのか、
一度実をつけたら、数年やすむ、みたいな、
そんなバイオリズムの違いじゃないかと思った、という話と、
なんか、最近は、人を責めなくなったな、
誰かが悪いからこうなる、という発想より、
想定、わたしの中に、そもそもそういう想定をしていなかったか?恐れはなかったかろうか?と、問うてみたり、
(あってもなくても、どっちでもよく、ただ、そんなことはないだろうか?と、可能性のひとつとして、見てみるだけ。そうだとしても、自分も責めない。単に、こわがってたな、わたし、と受け止めるだけ)
なんか、どっちでもよくて、単に、それが正しいかどうか、それはわかんないけど、
わたしはこうしよう、って動くようになった、
怒りやなにか真っ暗闇で、真っ黒に自分をしなくなったなぁ、と思った今日この頃でした。
何が言いたいかというと、
まぁ、大丈夫、ぼちぼちやってます。
わたしは元気です、ということ。
まあたのしむことは出来るよね、笑い合うことはできるよね、みたいな。
我慢しろ、それより逃げろ、みたいな二択じゃなくてね、なんかね、するりと、そうじゃない道も出てくるかもしんないよね、みたいな。
まぁ、よくわかんないけど笑